【INTERVIEW】OHTORA

OHTORA写真

現代のトラックメイカーの輪郭は、一言ではつかみにくい。

ある者はボーカロイドを操りながらオリジナル曲を発表しながらさまざまな楽曲を提供し、ある者は古き良きコンポーザーとして顔出しや積極的なSNS運用もなく、ひたすらに作曲・作詞を提供する。

ある者はDJイベントなどに積極的に出演し、その横でオリジナル楽曲を公開。また別の者は、日本のポップスフィールドから離れ、K-POPへの楽曲提供から徐々にメジャーフィールドへ進出するものもおり、別の者はSoundCloudやBandcampを通じて粛々と公開するものもいる。

そういったなかで、ササクレクト所属のOHTORAというアーティストの輪郭はどうだろう。

シンガー・ソングライターとしての顔を持ちながら、コンポーザーとしてはVTuber、アイドル、アニメ、CM音楽まで横断し、そのどれにも同じ熱量で向き合っている。年を追う毎に彼の名前と影響力は強まるわけだが、その音楽の源流・現在はどういったものなのか?

今回は、OHTORAへ突撃インタビューを行なった。時に迷い、立ち止まり、遠回り、少しずつ世界を広げながら、自分の居場所と表現のかたちを探し続けてきた男の輪郭を、このロングインタビューで掴むことができるはずだ。

(インタビュー/テキスト 草野虹)



いちばん最初はアイドルだったんですよね

–:子供の頃はどのようなお子さんでしたか?
OHTORA:どうだったろう。学校の催し物や、週1回のクラス会で漫才をやったり、運動会で応援団長をやってみたり。あと、学級委員長をやってたこともありました。
–:意外と目立ちたがりだったり、出しゃばる感じ?
OHTORA:昔はそっち寄りだったかなぁ……でも優等生という感じではなくて。地元が超田舎だったので、周囲にめちゃくちゃ優秀な人がいなかったんです。割とヤンチャな感じの人、そういうノリの子が多かったので、勉強もしっかりやってそういう雰囲気にも少し触れつつ、みたいな学生時代でした。
–:部活とかしてました?
OHTORA:バスケ部でしたね。
–:めちゃくちゃ目立つじゃないですか!(笑)。
OHTORA:いやいや! そのなかでも目立たない側ですよ(笑)。
–:音楽を知ったきっかけは?
OHTORA:音楽を知ったのは、SMAPの「Free Bird」でしたね。テレビでパフォーマンスしているのを見て、「こんなに心地いい曲があるんだ!」って知ったんです。書店のなかにCDを販売しているコーナーがあって、そこに月に何回か通うようになって、そこでいわゆるジャニーズさん、いまでいうSTARTO ENTERTAINMENTさんのグループを知るようになったんです。なので、いちばん最初はアイドルだったんですよね。SMAP、KinKi Kids……。
–:NEWSとか?
OHTORA:周りはNEWSでしたけど、僕は行かなかった(笑)。あとKAT-TUNも小学校の頃にめちゃくちゃ流行ってて好きでした。
–:その後はどういった音楽を聴くように?
OHTORA:ヴィジュアル系バンドが好きになったんですよ。Janne Da Arc、PIERROTとか。



–:BUMP OF CHICKENやELLEGARDENは?
OHTORA:聴いている人もいたな、という感じです。いわゆる邦楽ロックとかにはいかなかったですね。正直、田舎のなかで流行るものってある程度周囲と一緒で、そこから逸脱しないものを聴いて楽しんでました(笑)。
–:あー、わかる。自分も福島県出身だから温度感が伝わる(笑)。
OHTORA:地方って情報が少ないし、まだまだネットが広まっていない感じでしたしね。アイデンティティがないと言ったらそれまでなんですけどね。そのあとにK-POPも聴くようになって、BIGBANGとか東方神起が流行っていたころだったので。その頃に、アイドルになりたいと思って練習生になった時期があるんです。
–:えっ。それはもうしっかりと応募してっていう感じで?
OHTORA:そうですね。ジャニーズやK-POPを見ていて「アイドルになりたい」と志す時期があって、これは上京した後のことですが、某韓国事務所の練習生をしていました。1日に6時間か7時間くらい、歌と踊りをみっちり練習してました。でもやっぱり動き出したのが遅すぎましたね。本当に短い期間だけやって、すぐに辞めちゃいました。

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–:そうだったんですね。ちなみに、幼い時期からいままでで憧れのシンガーやアーティストはいますか?
OHTORA:両親がずっと好きだったので、高橋真梨子さんが憧れの存在です。シンガーとしての理想形だなと今でも思っていて、音楽性とかは自分のやっている音楽とはもちろん全然違いますけど、最終的にたどり着くシンガーとしての理想像じゃないかなと思っています。

なかでも『紗box』っていうカバーアルバム、幼いころに家族でよく旅行とか遠出とかで車に乗ることが多かったんですけど、車内で延々とこのアルバムが流れていたんです。中でも、「悲しい色やね」「いっそセレナーデ」という曲が好きで、原曲より先にこっちのカバーのほうで知ったし、抒情的な歌声に本当に胸を打たれましたね。



折れ切ってたけど、惰性で音楽活動を続けてたという感覚を当時抱えてました

–:その後に大学へ入学されたんですか?
OHTORA:そうですね。ただ大学も中退しちゃったんです。田舎からこっちへと出ていきたい! という気持ちで大学進学したので、「やりたいこと、別にないな」「特に大学へ通う目的も理由もないな」と思って、結果的に中退しちゃいましたね。
–:田舎が退屈だから東京で刺激を受けたいっていうのは昔からありますよね。じゃあ、その後は音楽活動に……。
OHTORA:いや、最初のうちは全然です。東京へ出てきて数年は、家はあるけどフラフラしてて、フリーターというのもはばかられるくらい。周りから「クズ人間」といわれてもしょうがないと思うくらい遊んで飲んで、放浪者みたいな生活をしていたんです。家はありますけどね(笑)。
–:大学のときの友達といっても、中退しちゃったしいないようなものか。高校のときの友達も……。
OHTORA:そもそも友達も限られた人しかいないうえに、地元の友達で東京へ上京してくる人もいなかったし、ほとんど断絶した感じでした。大学の友達も少なかったし、バイトを始めてやめてを繰り返してフラフラしてましたね。
–:その期間は、ずっとフラフラしててかなり空白期間だったと。当時はどんな音楽を聴いてたんですか?
OHTORA:その頃には洋楽も好きになってて、Childish Gambinoをよく聴いてました。入り口は「This Is America」だったんですが、そこからアルバム『Awaken, My Love!』の「Redbone」を聴いたときに衝撃が走って、当時出演したCoachellaの映像を何度も見て憧れましたね。



あとはK-POPをよく聴いていて、Block BのリーダーだったジコがKOZエンターテインメントというプロダクションを作ってたんですけど、後にHYBEへソロで移籍して、そのあたりのアーティストを追いかけてました。

あと徐々に昔のソウルやファンクも聴くようになっていて、当時は時間がたくさんあったので、聴きたい音楽をいろいろ聴いてましたね。



–:その頃ってOHTORAさんからみてネットカルチャーは近かったですか?
OHTORA:携帯を触っていると名前は知ってましたね、2ちゃんねるとかニコニコ動画とか。それこそ米津さんがハチとして活動しているのは、たまに見てました。
–:ネット発のクリエイターとして見られることも多いかと思うんですけど、意外とボカロ曲を作っていないですよね。
OHTORA:そうなんですよね。それこそボカロ曲を作るトラックメイカーが周りにいないので、作ってみたいなという気持ちはあります。
–:さっきOHTORAさんが言葉にしていたので乗っかるけど、放浪者みたいな生活をしていたときってどんな活動をしていたんですか?
OHTORA:キーボードを使って弾き語りをしていましたね。作曲もやろうと思ってたんですけど、当時はトラックメイカーとしての技術が高くなかったので、デモを作ってアレンジャーの方に頼んでましたね。作った音源はSoundCloudにたまにアップしていたけど、「この曲でいいのかな?」と思って、ほとんどアップすることはなかったですね。

ライブハウスでいろんな人に混じってライブすることもありましたけど、何ていうんだろう……。
–:折れる寸前だった?
OHTORA:いや、折れてましたね。折れ切ってたけど、惰性で音楽活動を続けてたという感覚を当時抱えてました。

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2026.4.8 12:00

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