【INTERVIEW】インタビュー 野澤收

野澤收インタビュートップ

1984年から87年にかけ全く働かず日々2人だけで、ほとんど誰にも知られることなく、多重録音したカセット・テープの制作を続けた北海道千歳の野澤收と福井慶治による狂気の宅録ユニット“ねっぱり一座”。その2025年最新編集によるリマスター・ベスト・アルバム『立腹音頭 ~Have we offended someone?~』が正式発売されたのを機に、その知られざる背景からその後についてまで、野澤收に話を訊いた。

(取材: 金野篤 2025年6月オンラインで)


手練れのミュージシャンと素人のシンガーで、千歳のCANかって(笑)

-:『ひよりみの塔』(小柳カヲル氏による同人誌、1995年1月創刊号)の野澤さんインタビュー記事によれば、73年からカセット・テープを出していますね、どんな音楽活動をしていたのでしょうか?中学の時ですよね。
野澤收(以下、野澤):家には66年頃からオープン・リールのテープレコーダーがあったんですが、それを使って遊びだしたのが73年ですね。初めは中学の同級生数人で集まりみんなで焼き芋を食べながら、そこから生じる生理現象音をいちいち実況録音してオープン・リール1本にまとめ、聴き返しては喜んでいました。『人類の神秘』というタイトルのオムニバスです(笑)。昭和の中学生なんだから、こういうことをしなくてはなりません。が、すぐに飽きて歌をつくり吹き込み始めました。私も友人たちも誰一人、アルバイトで金を貯め、楽器を買って練習しハンドを組んで、という発想はなく、ただ思いついた歌をアカペラやそのへんに転がっているピアニカや木琴で簡単に伴奏をつけて録音していました。いまだに何一つ楽器が出来ないのは、ひとえにこの時期の、ちゃんと音楽をしようと思わなかった、という発想のタマモノと信じております。ほんとに助かりました、後のねっぱり一座時代に、福井氏からもそれは指摘されました。これは、皮肉のニュアンスは全く無く、「なんにもやってこなかったから良いんだよね」、ということです。手練れのミュージシャンと素人のシンガーで、千歳のCANかって(笑)。
過去に戻れるなら、レコードの帯を破り捨てていた自分は張り倒すが、楽器をマスターしようとしなかった自分は褒めてやりたいですね。思いついた歌を吹き込むのに忙しくて、楽器を買ってその奏法だのコード進行だの覚えるヒマなんかありませんでした。ねっぱり一座での私の演奏部分は、見よう見真似と多重録音に助けを借りてしのいでいただけで、録音が終るとまた何も弾けなくなる、というものでしたからね。
-:子供の頃はどんなレコードを聴いてたんですか。
野澤:71年春の「嘆きのインディアン」が最初に買った洋楽レコードです、マーク・リンゼイとレイダース。



その時はまさか演奏がレッキング・クルーとは思ってもみないわけです。ただ、「ウルトラQ」が放映開始される寸前まで、つまり、それで音楽から一気に怪獣・SF・特撮の大ファンになり、ロック史にとって大切な60年代後半を完全に棒に振ってしまったんですが、それまでの幼稚園、小学校低学年の頃はクレージー・キャッツと坂本九の大ファンで、シングルもアルバムもいろいろ持ってました。自分の書く歌詞の中で4行目にたいていオチをつけてしまう癖は、間違いなく青島幸男の影響ですね。その後、最も影響受けたドアーズとの出会いは72年の夏でした。最高傑作は『L.A.ウーマン』ですが、もっとも思い入れがあるのは『フル・サークル』です。だからなんなんだ、という話ですみません。
-:高校時代もずっとカセットを作り続けますが、どのようになっていきましたか?それぞれどんな内容でしょうか。
野澤:例えば『どーだっていーべや』(オープンリール 73年10月)というトリオで作ったアルバムは、手近にある楽器やオモチャを買ってきて、それを使い歌やノイズを録音してました。この中の「へべれけ節」というのが、後に発売された伴淳三郎の「母ちゃんに叱られた」という曲に似ていたので驚いた記憶があります。ノイズの方は、今思えば、ESPの初期のGODZみたいなものでした。



ただし子供がやってんですけど。『オンリー・ヴォイス』(オープンリール73年7月)、『ニュー・オンリー・ヴォイス』(カセット74年)などは『どーだっていーべや』と同じメンバーで芸名だけ変えてやってました。多重録音ですべてアカペラ、一切楽器は使わずに幼稚拙劣品性下劣な歌を1年半くらいで数100曲ほど。

小柳カヲル氏による同人誌『ひよりみの塔』95年創刊号より


ねっぱり一座結成1週間前の、1983年12/23は忘れられません。福井氏が遊びにきて、一緒に『ニューオンリーヴォイス』をひととおり全部聴き返しました。腹痛、絶息、涙、2人で床を転げまわって爆笑の連続、翌日も顔面が痛かったほど笑いまくりました。生涯、あれほど笑った日はありません。だから鮮明に覚えてます。
76年から78年ころまでは『珍鈍屋』なるユニットで、また楽器音を取り入れました。末期は一応本物の楽器でなんとか。ロックというより、思いついた曲調のをただ次々に録音していったユニットで、勿論すべて宅録で、フォーク、歌謡曲、NHKみんなのうた風愛唱歌、ド演歌、カントリー、童謡、軍歌、いろいろやりました。イカ天で、たまが出てきた時、不遜ですが「こんな感じのはとっくに済ませてきたなぁ」と思ってしまいました。言い過ぎましたか。

私の勤め始めたレコード店に1週間ほど遅れて入ってきた長身長髪の19歳の青年が福井慶治でした

-:そして福井慶治さんと出会ったんですね。
野澤:82年の1月、私の勤め始めたレコード店に1週間ほど遅れて入ってきた長身長髪の19歳の青年が福井慶治でした。彼は楽器売場の担当でした。初対面からほどなく経ったある日、ビートルズのレコードのコーナーから私が手に取ったのが『マジカル・ミステリー・ツアー』で、2人同時に「これはいいよねー」と。客は来ないし、目の前の商店街も人通りはないし、2人でベルベット・アンダーグラウンドやドアーズやAC/DCや小野洋子、ルー・リードなんかをガンガンかけてました。すぐに親しくなり、お兄さんの影響で小学生の頃からビートルズやジミ・ヘンドリックスを聴いていたこと、しかも彼自身が非常に巧いギタリストである事実を知りました。彼は5歳年下の私の妹(*日和見捨松名義で86年カセット・アルバムをリリース。また99年、OZディスクより発売されたねっぱり一座のシングル盤のジャケット画も手掛けた)と同じ高校の1年先輩で、彼の参加していたハードロック・バンドの学園祭でのライブ・テープが、妹の録音ですでにウチにあったことや、互いの父親が、かつて同じ千歳市の米軍基地に勤めて知り合いだったことなども知って驚いたものです。
福井慶治

福井慶治


-:どんな人だったのでしょうか?
野澤:キャラクターは温和で人徳もあり、ユーモアを解する実にちゃんとした人でした。笑いが大好きな一面もあった。だけど「そうじゃない」ワイルドな部分もあるわけで……(笑)。そうじゃないと、あんなロックは作れませんよね。それとやはり、非常に気難しいところはありましたね。他人に対して攻撃的になったりは全然しないんですが。音楽の好みでいえば、まず、エリック・クラプトンとストーンズが嫌いだったことは間違いない(笑)。フランク・ザッパを知ってからは、徐々にかかりっきりになって、他に手がまわらないほどになっていきました。そりゃそうでしょう、あの作品量だから。
音楽的には、巧いプレーヤーがそうであるように、技術的には高度で複雑で理数的な作品を聴いていたように思います。でもプログレにはそんなには入れ込んでいなかったかな。ギタリストとしては、こっちはズブのドシロートだからたいしたことは言えないけれども、やっぱりザッパの影響はあったんじゃないかな。後に彼が演ってた「アリバイ」というトリオでの弾きまくりソロなんか凄かったですね、もうザッパの『アポストロフィー』なんか聴かなくていいなと思ったくらいです。
それから思い出すのは、リズムやドラムスへのこだわりですね、とにかくドラムスを叩くのが好きで、後年のソロ作品でも、ドラムスの音源への工夫や、演奏パターンのアイデアなどはすごかったです、で、若いころはギター表現が主だったけれども、だんだんとビートの面白さや作品全体のサウンド・デザインみたいな方向に興味が変化していったと思います。歌詞で言いたいことが出てこないんなら黙ってインストにしておけ、ということもよく言ってました。だからねっばり一座以降の、彼の歌モノはそんなに多くないはずです。それから「ザッパってポップなんだよね」ともよく言ってましたね。現代音楽もプログレも、まあ、初期ザッパもそうですが、曲が長くなる、それがヘンだと、もっと短い尺の現代音楽があっていいじゃないかと、しかもユーモラスな。けっしてBGMには出来ない類の、短くて人懐っこいシリアス・ミュージックのクリエイターでした。
-:ねっぱり一座、この名前の由来は?
野澤:中学3年の終わりごろ、クラスの平木君、高倉君と3人で1日で録音したオープン・リールのアルバムのグループ名をそのまま流用しました。特に由来があるわけじゃなく、なんとなく滑稽な語感だったので。このオリジナルねっぱり一座の音源はもう世の中に存在しませんが、なんにせよ児戯そのものでした。
野澤收

野澤收


-:ねっぱり一座の歌詞に見られる、もちろんサウンド面でもですが、社会や身近な周りに対しての怒りというのは?
野澤:偽悪のポーズをとることが、ロックの大切な外連味のひとつだとはわかっていたので、ことさら、そうしてました。「歌詞が偽悪的すぎるかな」と言ったら、福井氏が「偽善よりいいんじゃない?」といってくれたのは助かりました。特定の人物だろうと、社会事象だろうと、文句をつけ、悪態をつき、絡んで歌で喧嘩を売るんなら誰でもよかった。ほとんど歌の通り魔みたいなもんです。で、本気で怒ってくる相手には常に「シャレのわかんない野暮な奴だねー」と笑い飛ばすつもりでいました。勿論、そんなことは一度も起きなかったけど。だって、誰も知らないんだから(笑)。
70年代の中ごろからか、日本のロックは健全なヨイ子が健全で前向きな歌を歌って「ロック」を自称するようになる。それで支持を受けるんだから「あ、この国にロックは要らないんだな」と。いいんですけど、べつに。それは今も変わらないけれど、日本国と日本人のあり方が実に腹立たしく情けない、ねっぱり一座から始まった福井と野澤のやりとりは最後の最後まで、その一点に集約できたと思います。
ねっぱり一座

-:2人それぞれの家で録音はどのように行われたのですか?
野澤:時期やアルバムによって、2人のどちらかの家6畳間にドラムスや録音機器を移動してやってましたが、当然、マーシャルのデカいアンプは福井宅だけで。最初のカセット2本は、だいだいの曲がオープンリールからカセット、そこからまたオープンにいって最終的にはカセットのマスターに落ち着く、そんな感じのピンポン録音でした。カレンダーの裏に大きく曲の進行を書いて壁に貼り、それを見ながらひとりがドラムスをソロで録音、別室からもうひとりがドラマーのヘッドホンに指示をいれながら「次でオカズ入ります」とか言って(笑)。2人が同時に演奏するときは、片方がミスしたらテープを止めて、巻き戻して、また初めから全部やりなおす。4トラになってからは、2人で同時にヘッドホンでモニターしながら、フェイドアウトが早すぎた、遅すぎた、といいながら延々と繰り返してました。ミックスダウンは細心の注意を払って、それはドルビーを使う・使わないという判断なんかのヒス・ノイズ対策も同じで、とにかく当時のできることのベストを心がけてました。
-:2人はどんな楽器を使ってたんでしょう。録音機材も教えてください。
野澤:私は楽器のブランドには疎いので、そこは福井氏の担当ということで。福井氏が使っていたのは愛用のストラトキャスターがメインで、沢山のギターを曲やアルバムでいろいろと使い分けるようなことはしていなかったと思います。ただ、ギターの音色の決定には時間をかけて慎重にやってました。初めの頃はパイオニアのオープンリール・テープデッキ、ビクターとソニーとナカミチのカセットデッキ、ピンポン録音で、間には簡易なミキサーを使ってマイクを振り分けていました。すべて一発勝負の録音だけど、別に売り物を作ってるわけでもないし、本当は何も緊張する筋合いなどないのに、一応緊張したりする。後期になるとクラリオンの上下2つのユニットからなる4チャンネル・マルチ・トラッカーで、遊びまくりました。マイクの代わりにヘッドフォンに向かって歌い録音したり、カセットテープを一度ひっぱりだしクシャクシャにしてから録音したり、スネアを裏返してマイクそのものと指で叩いて、シンバルやハイハットは別録りしたり。「俺が居る」がそうです。とにかくなんか変な感じで音が録れないかといつも考えてました。
-:そしてシンセサイザーを導入するんですね。
野澤:結局、『斬』(2本組カセット86年4月)でだいたいのことを達成した実感があったんだと思います。次はなにか新機軸をというんで、シンセサイザーやシークエンサーを使い始めました。ただ、そのことで、いかにも80年代っぽい音になってしまった。それは今となってはわかるんですが、当時は当然、それでいいと思ったんですね。でも『勝手にどうぞ』(カセット87年3月)でのシンセによる、ビザールで奇妙な、ねっぱり流の現代音楽風インストなどが、ソロに転じてからの福井氏の、ひとつの出発点になったのではと思っています。現に彼は最晩年まで、「お萩」の様々なバリエイションのヴァージョンも作り続けてました。非常に面白い作品です。
『勝ってにどうぞ』(87年)

『勝ってにどうぞ』(87年)


-:曲作りはどのように?
野澤:ねっぱり一座時代はほぼ例外なく、福井氏の作曲したものに私が歌詞をのせる形でやっていました。私が作曲も手掛けたものとしては「俺が居る」や「貧しき食文化・即席ラーメン」かな、その辺は例外です。「ですぺらより」はすべて私ひとりで、福井氏は参加していません。逆に私が参加していない福井氏の作品は、何曲もあります。ねっぱり一座以前と以降のバンドではほとんどの曲を、私ひとりの鼻歌アカペラ作曲で作らせてもらっております。10代から60代まで、どんなハンドでもその都度、傍らに有能なギタリストがいて助けてくれる人生です。偽楽拙唱の徒を、なんとか歌の作者として成立させてくれる彼等に感謝あるのみです。
-:ねっぱり一座の頃は20代半ばで、実家暮しで働かず家族の中で何も言われなかったのでしょうか?
野澤:もしも自分の息子や孫が、働きにも行かず自室で大音量で音楽を録音していた場合、それが好みに合うオールドスクールロックでしかも人力による演奏だった場合ならば、間違いなく私は「爺さんも混ぜれ」と乱入はします。しかし昭和初期に生まれた私たちの両親の世代にとって、おそらくあの状況は耐えがたいものだった(大笑)はずです、が、何も言われた記憶がありません。どういうわけか、放っておいてくれた。福井氏も親御さんから何かいわれたというような話は、聞いたことがない。もしも言われていたなら、私に話してくれるのは間違いないし。おいそれと職にもありつけない不毛の大地で、哀れな息子たちには、せめてものうっ憤晴らしを続けさせてやろうかと頭の下がる親心だったんでしょう。とはいえ、積極的な職探しなど2人ともまったくする気もないのですが。
-:この頃、聴いていたレコードのことや影響受けた本や作家のこと。それがどう自分たちの音楽に反映されましたか?
野澤:ザッパ、ドアーズ、ジャックス、三上寛。さらに当時、聴いていたのを羅列しますと、CAN、キャプテン・ビーフハート、野坂昭如、エドガー・ブロートン・バンド、テリー・ライリー、チャールズ・マンソン、ゴッズ、ファグス、レッド・クレイヨラ、萩原健一、ストラングラーズ、小野洋子、サーロード・バルチモアあたりです。あと、頭脳警察。セカンドのバック・カバーに写る石塚俊明氏を見て福井氏は自分と「似てるわ」と言ってましたが、実際似てました。2人ともファンだったのが横尾忠則と立川談志。作家では私は辻潤、ジャック・リゴー、大杉栄、セリーヌ、三島由紀夫。ビートニクの作家や物書きとしてのジム・モリスンは、正直なところ、そうでもない(笑)。当時、いろいろと創作している過程での本人達は、無意識に言葉や演奏で影響を受けているのだと思いますが、ねっぱり一座は意識的に、ピンポイントで、あのバンドのあの曲に寄せていこう、と意図したパターンはわりと少ないと思っています、けれども、今、聴き返すと、そうでもない部分もあって、むしろリスナーの方々が、方々と呼べるほどたくさんいらっしゃるかは、甚だ疑問ですが、いろいろと見つけるかもしれないですね。
歌詞や言葉に限定していうなら、これらのアーティストたちの、厭世的で懐疑的で、露悪的で攻撃的で偽悪的な歌詞や姿勢の方に、無意識のうちに常に準じていたのは間違いない、「みんなで肩組んで、愛と希望に向かって歌ったところでなんになる」ってなもんです。歌で連帯なんか冗談じゃない、少なくともあの当時は。
-:今、話に出たジム・モリソン、83年に墓参りに行かれてますよね、パリの。
野澤:「あんたのせいで人生を踏み外したんだよ!!」と怒りの御礼をしなければ気が済まなかったんですね、直接、会って。あの時僕も若かった。他国のファンに「毎年、命日にここにきているけど、日本人のファンに会えたのは君が初めてだ」なんて言われました。だけどみんなとにかくうるさく騒ぐので通報されたんでしょう、突然の警官たちの乱入、さっきまで話していたヤツがひっぱられているわけです。なんとか逃げ切りましたけど(笑)。まだ真新しい胸像は残っていたし、いい時期に1回目の墓参をしたと思ってます。そういえば国内線・国際線どちらも、行きも帰りも、なぜだか機内でドアーズがかかっていて、あれには心底まいりました。着陸後も座席を立てないんだから(笑)。それ以降、今にいたるまで、日常生活で不意に耳にする「たまたまドアーズ」現象は多発して、私の周囲ではもう誰一人驚かなくなりました。
墓参りの様子を拙文にまとめたものが83年の「ミュージック・マガジン」のレターズ欄に載って、福井氏は大変驚いていたんですが、こっちも彼の作ったねっばり一座前夜の多重録音デモ・インストのテープに、ぶったまげていたわけですから。

じゃあこれで解散で、なんてことは言わなかったし決めなかった


『斬』(86年)

『斬』(86年)


-:ねっぱり一座のカセット・アルバムをたくさん出されていますが代表作は?
野澤:2本組の『斬』です。よくぞあんなの作ったもんだと感心します(笑)。
-:思い入れのある曲というと?
野澤:録音を終えた直後、私が「俺はこのギターソロを将来泣きながら聴くことになるよ」と言ったら福井氏は笑っていましたが、現実にその通りになったのが「はねられ即死」です。「明るく」の抑制されたソロもいい。「普通というのが流行る」は後半のショーケン・パロディのヴォーカル以外、誰の模倣でもない珍妙なオリジナリティーがあると思います。「俺が居る」については、現在も今やっているバンドのR58(*2017年3月、岡山市で結成。本年7月の神戸でのライブが通算99回目を迎える。バンド名は、映画のレーティングR18に倣い、58歳以下の人は何を歌ってるのか理解出来ないはず、にちなむ)のレパートリーとして歌えているし、歌詞に心情がオーヴァーラップ出来ているという意味でも特別かもしれません。自分の査定で40年も持つとは思いませんでした。それとやはり異様な熱量が面白いのは「くたばれ関西人」です。あの時はあれでいいと思っていたけれど、今なら間違いなくタイトルも歌詞も中国人に差し替えます(笑)。あとは、見様見真似で私がベースを弾いた「ラーメン・即席ラーメン」。福井氏と歌う「何をやっても駄目な民族 即席ラーメン喰っていた」というのがねっぱり一座の最後に出した結論であり、以降も私達2人の間で最後まで続いた共通の認識でした。
ねっぱり一座

-:その「俺が居る」は、どのように三上寛さんに渡ったのでしょうか。
野澤:テレビの仕事か、ツアーで来道した際に、たしか帰り際に恐る恐るテープを渡しました。後日、電話をくれて「やばいぞ、あれ。」と。さらにレパートリーにしてアルバム化するからと。マイりますよね、普通。こっちがファンなんだから。でも面白いのは、私が歌ったのは、無職でいかなる社会的なステイタスもない若造が、居丈高に大きなツラして「俺が居るだけでよし」と唄うことの自嘲の面白さを狙っただけなのに、三上さんが歌い始めて、もっと歌詞がもたらす想像のフィールドが広大になったことは確かで、誰かが反天皇制に通じるヤバさ、みたいなことまで書いていたかな。だから、歌って面白いです、非常に。ただ、あの曲以前から、私には憂国の演歌こそが日本人にとってのロックという直感と確信はありました。
-:そして、ねっぱり一座は、どう終わったのでしょう?
野澤:87年の『勝手にどうぞ』の後、お互いに何も言わず、自然に作業をしなくなっていったような気がします。じゃあこれで解散で、なんてことは言わなかったし決めなかった。ひょっとしたら、その時期あたりで、両家からの無言のプレッシャーがいよいよ苛烈になっていったのかもしれない(笑)、知らんけど。絵にかいたような「何となく」のテイで終わりました。
小柳カヲル氏による同人誌『ひよりみの塔』95年創刊号より

小柳カヲル氏による同人誌『ひよりみの塔』95年創刊号より


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『立腹音頭 ~Have we offended someone?~』 / ねっぱり一座
『立腹音頭 ~Have we offended someone?~』
/ ねっぱり一座
2025年6/4リリース
フォーマット:CD
レーベル:SUPER FUJI DISCS
カタログNo.:FJSP531
【Track List】
01. 惜別の譜 
02. 立腹音頭 
03. 支那人の首 
04. 没法子 
05. 抜け娘 
06. 成人さん 
07. 明るく 
08. 人ハ顔ナリ 
09. 「そうですね」 
10. 鮮やかな耳 
11. 俺が居る 
12. お萩 
13. くたばれ関西人 
14. はねられ即死 
15. 無言の帰宅 
16. ああ一般 
17. 出勤 
18. 大粒の涙 
19. 頑張っている 
20. 貧しき食文化・即席ラーメン 
[サービス・トラック]
21. 正義に殺された山猫の唄 
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2025.6.8 12:00

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