【INTERVIEW】黒色エレジー、27年ぶりリリース。その監修者イトケンとギターICHIROHに聞く

ダークでサイケ、独特高貴なサウンドで1980年代後半に人気を博し、その後、世界的に伝説となったバンド、黒色エレジー。1993年に発売された編集盤CD『エソデリック・マニア』以来27年ぶりに、スタジオ録音(1985~89年)14曲+初出6曲を含む完全未発表ライブ(1989年)12曲の2枚組CDが2020年12月30日にリリースとなりました。ヘヴィでメタリックかつ変幻自在なアンサンブルのバンド・サウンドに、自由で天才的な躍動感のボーカル、キョウコの存在が圧倒的で、時代を感じさせない。
そのキョウコとは1992年のHarpyより活動を共にし、今回のCD発売では監修を務めたイトケンと、黒色エレジーのギタリスト、ICHIROHに、話を聞きました。
なお、本年1/10より配信でもリリース、まずは聴いてからこの対談を読んでいただければ幸いです。



それまではレコードは大手のレコード会社がつくるもので、まずレコード会社の眼鏡にかなう音楽でなければならないと皆信じていました。ところが、パンク、ニューウェーブの連中は勝手に創って、勝手にレコードを売り始めます。これなら自分もできる。やってもいいんだと。(ICHIROH)

-:ICHIROHさんは元々どんな音楽が好きだったのでしょう。
ICHIROH:洋楽に興味を持ったのは、小学6年くらいだったと思います。ラジオを聴き始めたからです。ビートルズの「Let It Be」をカセットテープで買ってから、ドンドンのめり込んでいきました。中学生時代はFM番組表付き雑誌を愛読しエアチェックと音楽雑誌で音楽情報を収集していました。この頃が一番音楽を真剣に聴いて憧れていた時期です。
ブリティッシュ・ロックを中心に色々聴きました。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ブルース・ロックやプログレなど、とにかくロックに憧れていました。今にして思えばレッド・ツェッペリンやピンク・フロイドが特に好きで影響も一番受けたように思います。
-:1980年代、まず地元の岡山で、パンク・バンド“肉弾”から始まるわけですが。
ICHIROH:高校生になるとエレキ・ギターを手に入れロック・バンドらしきものを始め、後に肉弾をつくることになる、ブンヤ(ボーカル)とも出会います。パンクやニューウェーブの情報の多くは、まずブンヤからもたらされました。当時は、日本語のロックに抵抗がありコンプレックスを感じていたのですが、パンク、ニューウェーブが、インディー・レコード時代の扉を開き、その波に乗ることになりました。
レコードが創りたかったのです。ジャケットのアートワークも含めてレコードに憧れていたのです。それまではレコードは大手のレコード会社がつくるもので、まずレコード会社の眼鏡にかなう音楽でなければならないと皆信じていました。ところが、パンク、ニューウェーブの連中は勝手に創って、勝手にレコードを売り始めます。これなら自分もできる。やってもいいんだと。
色々試行錯誤しながらブンヤと肉弾を続け、後に黒色エレジーでも共にするコウイチ(ベース)が参加します。肉弾は、スターリンの前座をやり、ミチロウが主宰する雑誌「ing0」にソノシートと共に紹介されました。その後単独でもレコード制作やライブ活動を続けましたがドラマー不在が長く続き活動休止状態になっていました。
-:肉弾から黒色エレジー結成に至る経緯は?
ICHIROH:活動休止状態の肉弾に、オムニバスに参加して欲しいという話が、2件ほぼ同時に来ます。休止状態だから肉弾でなくても良いかと、聞いたところ何でもいいからとにかく参加して欲しいといいます。新しい刺激が欲しかったこともあって、キョウコ(ボーカル)とヤスユキ(ドラマー)に声をかけ、ひと月くらいで2曲作ってレコーディングしました。「Sunstroke」(1985年、カセット・コンピ・アルバム『LOVE IS BEATIFUL Vol.1』収録)と「邪宗門」(1986年、10インチLPコンピ・アルバム『INTONATION』収録)です。



-:キョウコさんとヤスユキさんとは、どのように?
ICHIROH:2人ともライブなどでよく会っていたのですが、音楽的にはほぼ未知数でした。キョウコは、以前に見たライブで、ミニマルなビートをバックに、声のトーンを変えながら、ただ数を、数え続けるという、実験的な曲をやっており、センスの良さがずっと気になっていたのです。その時はそのまま続いていくとは思っていませんでした。
イトケン:岡山での黒色エレジー活動期にコンテナでリハーサルしていたと聞いたような気がするのですが本当ですか?当時の岡山のそういった環境はどんな感じだったのでしょうか?今はライブハウス、ペパーランドという感じですが、コマンドで色々企画されていましたね、その辺の話もお聞きしたいです。
ICHIROH:木工会社を経営するミュージシャンが、防音改造コンテナを並べたスタジオTODAYをやっており、練習スタジオとして主にそこを使っていました。
肉弾の初期は、コマンドでよくライブしました。コマンドは小さなバーで、カウンターの奥が壁一面レコードラックで、レコードを良く聴かせてもらいました。そして、すし詰めでライブをしていました。それからペパーランドに移っていきました。

いかにもロック・バンドっぽい名前や怪獣みたいな名前は避けて、覚えやすさや音とのギャップが際立つようにと、当時は思ってつけましたが、まずかったかなと、後悔したこともあります。(ICHIROH)

-:黒色エレジー、このバンド名の由来は?そして、どのようなことをやろうとしていたのでしょう。
ICHIROH:本当は言いたくないんですが…、つけたのは私ですけど、カッコ悪いからやめてくれと不評でした。メンバーにもっといいのを出してくれと言ったのですが出なかったので、黒色エレジーになりました。
ジャックスの早川義夫のアルバムに「かっこいいことはなんてカッコ悪いんだろう」というのがありますが、いかにもロック・バンドっぽい名前や怪獣みたいな名前は避けて、覚えやすさや音とのギャップが際立つようにと、当時は思ってつけましたが、まずかったかなと、後悔したこともあります。
エレジーという言葉にいつしか取り憑かれており、エレジーは、音楽の総称で、世界の通奏低音だと。当時、寺山修司が好きで、「鳥が飛べるのは、翼の下で重力と哀しみが釣り合うからだ」といった何か無情感のようなものを表現したいと思っていたのでないでしょうか。今となっては定かではありませんが。
名前で避けられる事も多かったのでは、と思いますが、初めて音に触れる人にギャップを与えたかったのではないかと推測されます。屈折していますね。
イトケン:そういえば、俺があがた森魚さんのサポートやってたときに、キョウコちゃんを紹介して、黒色エレジーというバンド名にも反応していたの思い出しました!あと、あがたさんの好きな稲垣足穂とキョウコちゃんの誕生日同じって言っていたなー。いずれにせよ、当時のライブハウスのスケジュールでは目立ちましたよね。



-:黒色エレジーの活動期に、イトケンさんはどのように関わっていたのですか。
イトケン:ちょうどICHIROHさんがいた頃はライブを見に行く側でしたね。それこそトランス・レコード関連のライブとかよく行っていました。ICHIROHさんが抜けたあたりに、学生のときにやっていたバンドで高円寺20000Vで自主企画をよくやっていて、そこに黒色エレジーを呼んだりしていました。ICHIROHさんの後任のギターには、今よく仕事で一緒している栗コーダー・カルテットの栗原正己さんの弟さん(栗原道夫)がいたり、全く別のルート、猫好きのサークルなんですけど、そこに黒色の最後のギターの人がいたりとリンク感が未だに続いていますね。
-:イトケンさんの最初のバンドって!?また、吉田達也さんに付いていたと伺っていますが。
イトケン:中学でニューウェーブ、高校では国内、海外のインディーズにハマって、「宝島」、「フールズメイト」「DOLL」などを読んでいたので、その頃からトランス・レコード周辺は聴いていましたね。大学に入学したころ「フールズメイト」誌に、吉田達也さんがスタッフ募集していたのを見て応募しました。それでRUINSやYBO2のライブはスタッフとして帯同してました。
自分のバンドは“IXA-WUD”、その辺の変拍子、ノイズなどの音に影響受けた感じですねー。SSEのコンピ・アルバム(「Galaxy & Nū Beauty」1990年)やDead Techのサンプラー・アルバム(「Dead Tech 3:New Japanese Music」1992年)にも収録されました。
大学の後半はディスクユニオンお茶の水3号店でバイトしていましたよ!



-:ボーカリストとしてのキョウコさん、間近でどのように見ていたのでしょうか。
ICHIROH:キョウコに対しては、センスが良さそうだとは思っていましたが、オムニバス用の2曲を作り、その才能に参りました。対応力が凄いし、アイデアも豊富で、いろいろなヴォーカル・スタイルを行き来して、初期の頃の練習スタジオでは、毎回奇跡が起こっていたように思います。
-:曲作りはどのように?
ICHIROH:岡山の場所は言えませんが、山奥のパワースポットに行き、そこで得た霊感を元に、曲を作っていました……、みたいなのだと面白いと思いますが、残念ながら、普通です。スタジオで音を出しながら、まとめていきますが、私がギターでほとんどつくる場合、コウイチがベースラインを、ほぼ完成形で持ってくる場合、お互いのパーツを組み合わせてつくる場合、セッションしながら出来ていく場合、特にルールはないのですが、ボーカルは意識せずオケを仕上げていき、歌は最後です。メロディをある程度決めてから、詩を書いていたと思います。
-:ICHIROHさんやキョウコさんの歌詩が独特です。どのように作っていったのでしょう。
ICHIROH:「邪宗門」や「花粉犯罪」は、私が詩を書いていますので、その場合は詩が先になります。「花粉犯罪」を創った時の記憶が鮮明に残っていますが、スタジオで初めて曲を演奏し、詩を渡したら、あろうことか一発で決めてくれました。自分で書いておきながら、これどうやって歌うの、と思っていましたから、驚きました。
こういった、曲が降りてくる感覚は、その後何度も経験する事になります。キョウコが書く詩については彼女に一任ですが、タイトルには口を出していました。「太陽眼」にするか「太陽眼球」にするか、とか。
「神々のレース」や「虹と蛇のブルース」はタイトルを、私が決めてから、メロディを作りながらキョウコが詩を書いたと思います。民俗学や神秘学的モチーフを持ったこれらの曲は、練習スタジオに行く車の中での会話から、キョウコが、イメージを上手く汲みとって歌詩にしてくれました。
-:1980年代半ば、このころ音楽的な海外からの影響は?
ICHIROH:UKの影響は、大きいでしょうね。ヨーロッパの音楽に感じるのは、教会音楽からのクラシック音楽の地盤がしっかりとあり、その上に乗った、ロックであり、パンクであり、テクノなのかなと、そこはコンプレックスですね。

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『Kokushoku Elegy』
/ 黒色エレジー
2020年12/30リリース
フォーマット:2CD/デジタル配信
レーベル:SUPER FUJI DISCS
カタログNo.:FJSP419
【Track List】
Disc 1[STUDIO]:
01.訪れざる宴
02.満月の夜
03.Warrior
04.Goddess
05.花粉犯罪
06.夢の成る頃
07.安息日
08.鵼鵺の想い
09.邪宗門
10.太陽眼
11.サンストローク
12.揺籃の刻
13.神々のレース
14.虹と蛇のブルース
Disc 2[LIVE]:
01.Crepuscular Rays
02.Seiren
03.虹と蛇のブルース
04.Dear Sheba
05.青いダリア
06.鵼鵺の想い
07.Cosmictrigger
08.訪れざる宴
09.日々の泡
10.Goddess
11.神々のレース
12.夢の成る頃
ディスクユニオン


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2021.1.17 12:00

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