【INTERVIEW】インタビュー 野澤收

観念性の高い音楽は緯度の高さも要求するのだ、とか言って(笑)
- -:その後のソロ活動について教えてください。またプロデュースも行ってますよね?
- 野澤:ねっぱり一座の時から「苦悩する若人のレーベル・冥府魔道」というのを始めて、私の過去の、どうかしている作品をいろいろとカセット化してました。活動中から、2人の共通の友人である杉﨑英利氏のユニット「ドリンクス」や「日和見捨松」のアルバムに曲や演奏でそれぞれ参加したり、制作を主導したりしましたね。福井氏は、他の人のアルバム制作に関わるときも実に楽しそうに臨んでいたのを思い出します。ビートルズが『ラバー・ソウル』のジャケット写真をああした方が良いと決定したのと、全く同じセンスを示していた局面をはっきりと覚えています。
例によって極少数の友人たちにウケたのは、日和見捨松の2作と、私にコテンパンに論破される下着泥棒の常習犯との会話を隠し撮りしたドキュメント・アルバムあたりです。後者は三上さんから絶賛の電話をいただきました。

野澤收 92年ころ
- -:90年代になると、東京に出て来るんですよね?
- 野澤:「俺が居る」のこともあって、三上さんに「解禁するから。出て来いよ」と言われ、その気になったわけです。あまりにも身近になところに才能ある人物がいて、しかもいろいろと創作してきたし、何よりも「俺が居る」がひとつの自信になってるし、東京に対してはけっこう気負っていたんじゃないかな、どこかで。まだ30そこそこだし。上京した途端、失ったと痛感したものは、何かに綿密に根気よく取り組む集中力です。なぜだかそれを喪失したんです。
- -:北海道の千歳と何が違うんでしょうね。
- 野澤:これはもう音楽がもたらす私的な妄想の話になるけれど、北海道の真夏の未明に聴くテリー・ライリーの『シュリー・キャメル』とか、真冬の夕暮れに聴くニコの『チェルシー・ガール』の衝撃を知っているんで、やっぱり緯度の高さは少なくとも自分の好みのタイプの音楽の、創作や聴取に何か関係するのだと決めつけてました。裸のラリーズなんかも実は北海道で響きわたっていた方が、より凄かったんじゃないかと思ったり。観念性の高い音楽は緯度の高さも要求するのだ、とか言って(笑)。
- -:このころ、三上寛ファンクラブを作ったんですよね。
- 野澤:正確にいつごろ発足させたのかは思いだせないのですが、90年10月に千歳に私達が三上さんを呼んでライブを開催してますので、その少し前かと思います。その告知で「三上考務店」としてポスターを作ったりテレビ出演したりしました。モノラルですが福井氏がサウンドボード録音をしてくれました。会員数はまだ数人だったと思います。翌年から東京の中目黒に事務所を置いて、PSFの生悦住英夫氏の全面的協力と庇護のもとで徐々に会員数を増やしていきました。『ミカミスト』という会報もほんの数号ですが作った覚えがあります。しかしやっぱり『十九歳』というあの限定アルバムを出せたことに尽きます。本当にラッキーだったしやって良かったと。関係各位に今もって感謝しています。
- -:東京に出て来てバンドを始めますね、第一発見者。CDも残しています。
- 野澤:これは、ねっぱり一座と全く異なる、未完成でラフなままのあり方でいいからとにかくライブを重ねたいという姿勢でした。福井氏は北海道で最後まで集中力を維持して創作していたけれど。

第一発見者
- 五反田にあった「スタジオ・ハープ」という小さなライブ・ハウスは、90年代初頭の当時、三上さんが定期的に出演していたところで、そこのマスターであり、クロマチック・ハーモニカの名手でもある坂本惠一氏が、PSFの生悦住氏の友人だったこともあって、三上さんのオプションで上京した私としては必然的に、その店に行き、坂本氏と知り合うことになりました。それで結成したのが第一発見者です。メンバーの変遷はあったけれど、坂本氏と私は不動のままで1992年から2年くらいは活動したんじゃないかと。私はねっばり一座時代の延長で曙嬰介を名乗ってて、ねっぱり一座の未発表曲や「正義に殺された山猫の唄」のバリエーションをライブでよくやってましたね。まだ初期の段階で、たまたまDATで録音していたライブを「これをCDにして出そう」と坂本氏が言ってくれて、あっという間に『現場検証』というアルバムが出来てしまった。坂本さん生悦住さんありがとうございました。坂本氏が歌う「俺が居る」もとてもいいのです、ハーモニカ・ソロも凄いし。ただし、あの時代の私の歌詞はシリアス過ぎ、荒んで陰惨を極めた部分が多い。今ではちょっと勘弁してほしい歌が多いか(笑)。その後はまた反動のように「池尻貞代と少し、痒いけど…」(*98年から15年で9作のアルバムを残した)というユニットで、徹底的に下品な笑いをヤケクソになりながら、退化・退行を目指しました。

池尻貞代と少し、痒いけど…など
- -:93年にはPSFの名オムニバス『Tokyo Flashback 3』に第一発見者の「どうせみんなしぬ」が収録されます。
- 野澤:あれは「正義に殺された山猫の唄」の一部なんです。第一発見者で、ねっばり一座時代の「ですぺらより」のベースラインを流用し、そこに毎回ライブで書き換えた長い詩の朗読を被せるインプロビゼーションです。その一部分を生悦住氏が抜き出し、第一発見者の別の曲名「どうせみんなしぬ」をクレジットしちゃったのです。別にいいですけど。
- -:野澤さんといえば『ドアーズ~永遠の輪廻』、これを著したのはこのころですよね。
- 野澤:30歳の誕生日までに400枚、ドアーズか三上寛のテーマで書けと、英語で書いても良いと、三上さんにいわれて書き上げたのが88年で、92年に『レコード・コレクターズ』誌の「紳士録」でドアーズのコレクターとして私が取り上げてもらった時に妹に、今のタイミングで原稿売り込みな、と言われて3、4社に売り込み、音楽の友社が採用してくれた次第です。レコードとライブテープ、映像と資料で私見・妄想を綴った奇書になりました。しかし、2013年にレイ・マンザレクが亡くなった時、実は彼の想念が成立させていたコンセプト上の「ザ・ドアーズ」が、本当に終焉を迎えたと痛感し、同時に拙著も完全に賞味期限切れの態となりました。だから『永遠の輪廻』というのはやっぱり鈴木ヒロミツのソロ・アルバムだけを指すわけです。

野澤收 94年ころ
まず何よりも大前提として、私たちが作るような歌や音楽が、今の日本でウケるわけがないという、動かしがたい確信があるわけです
- -:90年代以降、東京-千歳と離れ福井さんとの関係は続いたんでしょうか。
- 野澤:実際に会うのは数年に一度でした。ただし、手紙やメールでのやりとりは2024年の7月まで、膨大な量になります。頻度は週に1往復のかなり長いメールのやりとりで、世相や政治に対して2人で悪罵しあっていました(笑)。物の見方やセンスはいろんな点でかなりシンクロしていたように思います。毎年、私の誕生日には彼は私の為だけに製作したソロ・アルバムを送り続けてくれました。凄すぎて言葉がなくなるのです。「実際、ザッパも武満徹も伊福部昭も聴く必要ないべ」としか言いようのないクオリティーでした。一方で私は、東京で15年ほど続けていた「池尻貞代と少し、痒いけど…」のアルバムが完成した時には真っ先に送っていました。福井氏は毎回、爆笑していたそうです。そして「あなたの本質・本性は‟曙嬰介”じゃない。間違いなく‟飯田吉田”だ」と言っていました。第一発見者まではわりとシリアスな感じでやってましたが、それまでの曙嬰介の名前を封印して、飯田吉田を名乗っていた時代は、どうかしているフリークアウトのキャラクターでやってましたので。いや、というよりも、むしろ「素」ですね。あんなに音楽に精通した才能なのに、なにも音楽をしらないし出来ないインチキ親爺の音楽をいちいち大笑いでウケてくれるのですから、こんな嬉しいこともありません。とにかくシャレの通じる人物でした。

- -:96年、きなこたけレコードより24曲入りCDが、99年にはOZディスクより「抜け娘 C/W 鮮やかな耳」が7インチ発売されます。そのすごさが少しずつ拡がったんですよね。
- 野澤:どちらも、東京で知り合った音楽活動をしている人たちに、オリジナルねっぱり一座をいたく気に入られまして、「ぜひ出しましょう」と言われたり、「ねっぱり一座のカバー・バンドをやりませんか」と誘われて乗っかった企画でした。ただ、そのきっかけ、どういう経緯でという部分は失念してしまいました。
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左 CD「俺が居る」(きなこたけ 96年) 右 7inch「抜け娘](OZディスク 99年)
- -:野澤さん、福井さん共に、世に知ってもらおう、売れようとか、上昇志向が全く無いかと思います。
- 野澤:まず何よりも大前提として、私たちが作るような歌や音楽が、今の日本でウケるわけがないという、動かしがたい確信があるわけです。もう最初から、ノー・コマーシャル・ポテンシャルっていうくらいで。80年代だろうと、現在だろうと、そこは絶大な自信ががあるんだ(大笑)。だって、なるべく人を不愉快にさせたいのが目的なんだから(笑)、どうしようもない。本来、唄を作り音楽を奏でるという行為は、本質的にそれ自体がポジティブな意味を持っていると思うわけです。だから,ねっぱり一座は己の溜飲を下げるためだけに機能している極私的なモンにすぎません。
一方ではまた、別の見方も出来まして、言葉じゃなくて音楽を使った、キレ芸のお笑い地下芸人という側面もあったと。ツッコミはお客さんが入れてね、と。シリアスに受け取ってもらっても「何言ってやんでえ」と笑い飛ばしてもらっても、可。
でも当時から、ウケたり売れたりする音楽が、私達には悉く退屈でどうしようもないものとしか響かなかったんで、「じゃない方」の模索でもありました。ロックって「和」じゃなくて「差」だと思うし、よそ様と似たようなことやってもしょうがないし。
そして、やはり福井氏が、己の才能を社会的な方向に向けて打ち出すようなタイプの人じゃなかったことは確かでした。一人でただ黙々と自身の音楽を突き詰めていった。才能を使った社会的な野心なんか持ち合わせていなかったとしか思えない。少なくともそう見える部分は多々ありました。でも彼の真意はわからない。ひょっとすると、あの才能をもって世間に勝負にでる心算も、あるいはどこかにあったのかもしれない。だけど何かがそれを妨げていたのかも。今となってはそこは本当にわからないですね。仮に、彼自身が世に問いたい作品があると考えていたなら、21世紀に入ってからのたくさんのソロ・ワークに違いない、そこまでは想像できる。ただ、じゃあ具体的にリリースのオファーを受けたとしたら、ストレートにそれに応じたかとなると、正直に言うと、ちょっと疑問も残る。私よりもさらに人間嫌いだった気もするし。あれだけの音楽の才能と技術、センスを持っていながら、上京して勝負してみるという一般的な上昇志向から徐々に離れていった、もしくは離れざるを得なかったのか。そのへんが実に複雑で難しい。いずれにせよ私は、才能と実人生は無縁なものなんじゃないのか、とか、職業として成立した創作活動こそが、必ずしも表現者の最終ゴールだとも思えないと考えるようになりましたね。
今回だけはねっぱり一座を広く世の中に聴いてもらおうと思ったのは、やはり去年の秋にああいうことが起きた(2024年秋、逝去)からです。CD発売が決定したのちに、実はちょっと奇妙なことがいろいろと起きて、これは福井氏がリリースに抗ってんじゃないかって共通の友人の杉﨑氏と話してました。だけど、福井氏の奥さんの許諾や協力を得てからは、驚くほど速いスピードで事が進んでいきました。今回限りは、今までにない広いフィールドでねっぱり一座を響かせたいと。私としては、才能に溢れた「彼が居た」という証明を個人的にどうしてもしたかったんです。俺はたこ八郎かいって笑いながら渋々このリリースを認めてくれている、と勝手に信じてますが。なんだか、モリソンを熱く語るマンザレクみたいになっちゃったかな。
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『立腹音頭 ~Have we offended someone?~』
/ ねっぱり一座
2025年6/4リリース
フォーマット:CD
レーベル:SUPER FUJI DISCS
カタログNo.:FJSP531
【Track List】
01. 惜別の譜
02. 立腹音頭
03. 支那人の首
04. 没法子
05. 抜け娘
06. 成人さん
07. 明るく
08. 人ハ顔ナリ
09. 「そうですね」
10. 鮮やかな耳
11. 俺が居る
12. お萩
13. くたばれ関西人
14. はねられ即死
15. 無言の帰宅
16. ああ一般
17. 出勤
18. 大粒の涙
19. 頑張っている
20. 貧しき食文化・即席ラーメン
[サービス・トラック]
21. 正義に殺された山猫の唄
ディスクユニオン
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2025.6.8 12:00