【INTERVIEW】李世福『LIVE 1976』


ちょうどこの時期はメンバーを入れ替えて再度また新たに出発するような感じで最初に野木三平さんを誘い、平尾、そして村上順一と誘いこのラインナップができたんだよね。

-:そういえば陳信輝さんとはどのように知り合ったんですか?
李:中華学校の先輩後輩の間柄だからね。エレキをやる前から一緒にキャンプに行ったりしたからさ。ある日エレキを弾いているって感じなんだよね。
-:陳信輝さんが、李さんのご自宅に来た事を教えていただけますか?
李:中学3年だね。信輝さんが高校3年生だよ。もうトッポイ格好をしていたよ。手にはマニキュアなんてつけちゃってさ。彼女とね。その彼女はハルミさんだ。サリーさん(元ゴーゴー・ガール。ゴールデン・カップスのドキュメンタリー映画にも出演、現在は横浜関内の弁天通りでサリーズ・バーを経営)のお姉さん。それで信輝さんが俺の家にあったギターでベンチャーズの「逃亡者」を弾いて、俺はびっくりしたね。パワーハウスの前だよ。それからちょっととぼけてテキトーだけどって言って「キャラバン」やったりね。そういうのをスラっとやってしまうんだよね。
-:エディ藩さんも同じく中華学校の先輩ですよね?
李:うん、5つ上。俺のお姉さんと同じ年なんだ。
-:ルイズルイス加部さんはどうやって知り合ったのですか?カップスのデビュー前ですか?
李:いや、デビューした後だな。加部さんの存在は聞いていたよ。あとその前にねゴール・デンカップスのメンバーではないけれど、うちによく来ていたのが野村さんだね(ジョニー野村。後にゴダイゴのプロデューサーとして知られる)。加部さんは外人っぽくてかっこよかったからね。



-:初めて李さんが本牧ゴールデンカップに行ったのはパワーハウスを見に行った時だったとか。
李:エレキやっている友達と行ったね。パワーハウスは何度も見てるけど、本牧ゴールデンカップでやるパワーハウスは良かったな。1969年頃だよね。
-:その頃、ゴールデンカップに入ったら「殺されるんじゃないか」というような雰囲気だったと聞いていますが。
李:そんな事はない。むしろね、レッド・シューズの方が怖かった。怖いというのは色々だけどさ。本牧ゴールデンカップでは米兵さんがいて色々あったんだろうけど、レッド・シューズは喧嘩を売ってくるからね。イチャモンつけたり、ちょっと肩をぶつけて「てぇめー、この野郎!」ってなっちゃうような。
-:ゴールデンカップは映画などで語られているような怖さはあまり感じなかった?
李:全然感じなかったよ。お客さんとして来ているんだからさ。白人や黒人、そして日本の女性とか。交流というか楽しみがあった。レッド・シューズはちょっとでも何かがあると喧嘩をしちゃうようないつもそういう雰囲気だよね。そうそう、その頃もうひとつニュー・レッド・シューズなんてのが斜向かいに出来てさ。そちらに頼まれて何度も演奏したよね。他にも色々やったけど。
-:それが自然と仕事となっていくわけですね。高校3年生の時に進路の事を先生から言われたりしませんでしたか?
李:親父が喫茶店を経営していたしね。俺も高校1年の頃からアルバイトをしていてバンドもやっていることも先生は知ってるから特に何も言われなかったよ。喫茶店のアルバイトは毎日ではないけれど、高校3年生までやっていたよね。時給が100円の時代。
-:それで1970年3月、高校を卒業してアメリカで日系人と結婚したお姉さんに会いに行きがてら、サンフランシスコに行くわけですね。そこで2ヶ月滞在しながらジミ・ヘンドリックスにアルバート・キングやジェスロ・タル、ポコを見たりという体験に繋がり、そして帰国後は自然とバンド・メンバーが集まり活動を始めたということですね。最初は李世福グループ。
李:最初は何てバンド名だったかな?覚えてない。何かのイベントに出る時に主催者がバンド名を「李世福グループ」とポスターに表記したからなんだ。ジェフ・ベック・グループみたいだと思われるかもしれないけどね。ジェフ・ベックのギターは好きだけど本当はそんな風にバンドの名前をつけたいとは思ったことはないね。アメリカから帰国してすぐだよね。友達がバンドやろうって声をかけてきて、1970年の7月からまたレッド・シューズに出た。
-:今回発売されたCDこの1976年のライブでは、もう1人のギタリスト、ボクチンこと薛秀香さんは中国系の人ですね。そして李さん、ボーカルは村上順一さんでドラムが野木三平さん、ベースがオイル平尾さん。このメンバーも自然と集まったのですか?どのようにして集まったのですか?
李:平尾とはその前1970年代初頭にやっていて一度はお互いが離れたけど、どうしてだったか忘れたけど1976年の少し前にまた一緒にやろうかということになったんだ。だからちょうどこの時期はメンバーを入れ替えて再度また新たに出発するような感じで最初に野木三平さんを誘い、平尾、そして村上順一と誘いこのラインナップができたんだよね。
-:その前のバンドのラインナップにはパワーハウスの野木信一さん(野木三平の実兄)がいらした時もあったんですよね。
李:あったあった。だから野木信一さんの代わりにといったら何だけど、信一さんが事情があって抜けてから弟の三平が入ったんだ。しばらくやったよね。そういえば、フィリピン人のギターとベースを集めて三平とバンドを組んだ事があったね。



皆さんもぜひCDを聞きながらこのテキストを楽しんでもらえたらと思います。

-:1970年代の初頭からいろんなメンバーを迎えた李さんのバンドですが、1976年には今回のライブ盤CDのようなメンバーが揃い、しばらく固定された知られたメンバーであり存在となっていくのですね。そうそう、村上順一さんはキーボードを弾きながら歌う方なんですよね。
李:最初は俺がアメリカから帰って来て井口さんという人が「(李世)福ちゃん、帰って来たからバンドやろうよ!」って声かけてくれて、続けて「順ちゃんって言うんだけど、キーボード弾いて歌う人がいるんだよ」って。それでテン・イヤーズ・アフターの曲なんか出来るだろうなと思って。でも、(村上)順一さんはキーボードをバリバリ弾くんではなくて弾き語りっぽいようなヴォーカルというのかな、歌がメインだね。でもそのうち歌だけに専念したいとキーボードはやらなくなったんだな。もともとそんなキーボードをやるという感じではなく作詞作曲して歌をやるという感じかな。
-:このメンバーで80年代初頭までやっていたわけですが、順一さんが脱退された事により李さんがヴォーカルをとることになるわけですよね。順一さんは脱退して渡米されそこで生活をし2011年に亡くなられた。どうしてアメリカに拠点を移されたのですか?
李:(しばらく考え込む)……日本に対しての不満じゃないけど色々あったからな……実はね、俺が言って独立してもらったんだよ。順ちゃんの曲は大好きで今も変わらないけれど、なんだかバンドが2つあるみたいな感覚に思えちゃったんだよ。
-:当時の李さんはそういう考えだったんですね。
李:うん。順一さんには急な話にも思えたらしく……「福ちゃんがそう言うならいい機会だな」と言ってね。
-:順一さんの曲と李さんの曲は全然世界観が違う、そう思ったんですか?
李:俺自身はそう思ったわけじゃないんだけれど、そういう風に受け取る人もいたからさ。この時(1976年)はそう思わないよ。その事を色んな人から言われて気になってね。沖田修(1980年代に加入したギタリスト)からも言われたんだ。
-:村上順一さんは南無というバンドでしたね、オノヨーコが参加し内田裕也がプロデュースした1974年の郡山ワンステップフェスティバルに出演しました。
李:彼は南無に相当力を入れたんじゃないかな。自分のバンドに誇りを持っていたからね。
-:ベースのオイル平尾さんは1970年代初頭から李さんのバンドに参加して少し間はあって1976年の少し前に再加入し1980年代初頭までいらしたわけですね。
李:そう。さらに後はチーボーさんのバンドに入ったわけだね。何しろ当時は辞めなきゃ他のバンドは入らないからね、当時はね、掛け持ちはない。
-:もう1人のギターの薛さん、このライブ盤CDではツイン・ギターでかっこいいですけれど、昔からバリバリにギターを弾いていて人だったんですか?
李:そうでもないんだよな……野木信一さんが連れてきたんだ。いつの間にか少しずつ上手くなっていったという感じかな。箱バンやってドンドンとね。
-:今回は貴重な証言ありがとうございます。
李:皆さんもぜひCDを聞きながらこのテキストを楽しんでもらえたらと思います。


聞き手・まとめ:前田健人




『LIVE 1976』
/ 李世福コネクション
2020年5/13リリース
フォーマット:CD
レーベル:SUPER FUJI DISCS
カタログNo.:FJSP391
価格:¥2,400(税抜)
【Track List】
01.Rock My Soul
02.Long Gone Memory
03.I Have To Forget
04.Moonlight Express
05.Members Introduction
06.Last Day
07.Spider In My Web
08.Wake Up Baby
09.It’s All To Us
10.I Know You
11.It’s No Good
ディスクユニオン

【李世福コネクション】
村上順一:Vocal
薛秀香:Guitar
李世福:Guitar
オイル平尾:Bass
野木三平:Drums

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2020.6.15 12:00

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