【INTERVIEW】日本を代表するブルース・バンド ブレイクダウン そのマネージャー、中根義之氏に訊く


ブレイクダウンは個性的な人たちでしたが、距離感を上手く保つことが出来る大人だったのでトラブルは一度もありませんでした

–:80年代に入ると、ドラムが小川さんから岡地明(現、曙裕)さんに替わります。
中根:82年末、小川さんが実家の仕事を継ぐためにUターンしたんです。レコードの発売元VIVID SOUNDの紹介でスゥインギン・バッパーズのドラムだった岡地明さんが加入しました。岡地さん向きの曲などもドンドン採用していきました。「ワン・ウェイ・アウト」などがその典型的な曲でバンドの幅も拡がりました。岡地さんは他のメンバーより6~9歳も若いのに、演奏ではしっかり主張していました。小川さんとは対照的にどんなジャンルでも叩けるオールラウンダーなドラマーで、感情移入やメリハリ、歌やソロ楽器へのリアクション、コール・アンド・レスポンスですね、歌やソロ楽器をよく聴き見ながらその細かいことが出来ていました。
–:レコード会社や事務所に所属することなく、自分たちで日本全国くまなくツアーしたというのがすごいことだと思うのです。

ツアーの移動中、静岡駅で、1980年



中根:1年の3分の1はツアーに出ました。井の頭線新代田駅前の日産レンタカーで、後ろシート1列のハイエース・ワゴンを借りて、後ろにバンドの機材全部、その前にメンバーと私の5人がすし詰め状態で日本中周りました。
息の詰るような空間に何時間も男ばかりがゴロゴロとね。ほとんどは愉しく大騒ぎしているか前夜の打ち上げで飲みすぎて寝ているかのどちらか、ですね。他のバンドの話ですが、ツアー中は2グループに分かれて移動した、とか、1人途中で帰った、とかよく聞いていましたから、ブレイクダウンは個性的な人たちでしたが、距離感を上手く保つことが出来る大人だったのでトラブルは一度もありませんでした。マネージャーとしては楽をさせてもらったと思います。



–:ツアー中、多くのエピソードもあったかと思いますが。
中根:長崎から鳥取まで冬の雪道を長時間移動して朝4時に予約した旅館にたどり着いたり、3月初旬大吹雪の北海道の日勝峠をノーマルタイヤで移動した話や、他にも生々しいエピソードもありますが控えましょう。
–:ライブはいつも盛況というわけでもないでしょう。
中根:ライブハウス・レベルではほとんど満員ですが、新興学園都市、つくばに出来た音響も照明も最新の機材で内装も豪華で200人は入るだろう大きなライブハウスで、お客さん3人というのがありました。メンバー4、マネージャー1、客3人、ホールスタッフ15人 、それでも手を抜かず 2ステージ演りました。



–:1980年に最初のレコードが発売となります、いきなりライブ盤が。
中根:日本中をコツコツと周って根強いファン層があったので、レコード会社も最初から乗り気でした。ファンもレコーディングを望んでいて。1枚目のライブ盤(『LIVE』1980年VIVID)が好評だったので、2枚目(『IV’E BEEN A GOOD THING FOR YOU』1981年VIVID)は期待が高く頑張ったがスタジオに籠って音を作るバンドではなかったんですね。こじんまりとした出来でした。3枚目(『ALIVE』1984年 Dead Ball Record)はお得意のライブ・レコーディングに戻ったが1枚目のライブを越える出来ではなかったでしょう。4枚目(『4』1985年 Dead Ball Record )は服田さんがスタジオ・ワークに意欲的でした。ライブだけでは生活が成り立たず、レコーディング時の一時金はとてもありがたかったです。

2ndアルバム録音、1981年



不思議な解散でした。このメンバーで出来ることは全てやり尽くしたんだろうと思います

–:83年、メンバーが替わり、京都から東京へと移ります。
中根:レコーディングを終え、一区切り、と感じたと思われ、またマンネリ感もあったと思います。小川さんの脱退を機会に83年から東京に移り住んでドラムも替わり、心機一転よい演奏がしばらく続きました。
–:80年代は、来日アーチストとのツアーもありました。

バーバラ・リン来日ツアー、1984年



中根:オーティス・ラッシュとバーバラ・リンとは2週間程度日本中を一緒に周っています。服田さんも近藤さんも英語が出来るので上手くコミュニケーションを取ることが出来ていました。森田さんの宴会芸や落語、ユーモアは万国共通ですからツアーの疲れや異国での緊張を取り除くことに貢献してくれました。
経済的な理由でブレイクダウンが解散すると聞いたオーティス・ラッシュはツアーの最後に一律1万円をメンバーに配ったエピソードは有名です。「こんな素晴らしいバンドが音楽だけで生活していけないのか!」と日本の現状を憂いていたそうです。

オーティス・ラッシュ来日ツアー、1986年



–:そして、86年に解散します。
中根:東京に拠点を移し、その新鮮さが薄れ始めた85年頃からブレイクダウン・スタイルのブルースショーを繰り返すことに辟易していたのではないかと私は感じていました。強力なバンド・スタイルを確立していた為、新たなバンド・コンセプトを誰もが提示出来ず、私も新たなステージを提供できないまま、希望を持てない中で誰が言い出すともなく解散した、不思議な解散でした。このメンバーで出来ることは全てやり尽くしたんだろうと思います。そのことは皆んな気づいていたと思います。



–:解散後、中根さんは?
中根:解散と同時に郷里に帰り結婚してサラリーマンになりました。彼らが私の町にツアーに来てくれたり、私の東京出張の時、一緒に飲んだり、つかず離れず会っていました。特に、服田さんは精力的に全国を周り私の街にも年に1回以上必ず来てくれて、私が作ったバンドとのセッションはいつも楽しみでした。

解散直前のブレイクダウン10周年ツアー京都磔磔


聞き手:金野篤



『ライブ・イン・ナガサキ』
/ ブレイクダウン
2022年4/20リリース
フォーマット:CD
レーベル:ブリッジ
カタログNo.:BRIDGE348
【Track List】
1.Baby Broke My Heart
2.That’s All Right
3.You Don’t Love Me
4.Gee Baby, Ain’t I Good to You
5.It Takes Time
6.Don’t Touch Me Baby
7.Let’s Have a Natural Ball
8.Taxi Blues
9.Money Marbles And Chalk
ディスクユニオン
Amazon
※1978年6/24 長崎大学での録音





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2022.4.14 18:00

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