【INTERVIEW】『SONASILE』/ 網守将平(PROGRESSIVE FOrM)
12/2にPROGRESSIVE FOrMよりアルバム『SONASILE』をリリースした音楽家、網守将平。
日本音楽コンクール1位受賞などのキャリアを持つ一方でラップトップによるライブパフォーマンスを行うなど、ジャンルの枠に捉われない活動を続けている彼が、あえてポップミュージックに振り切った作品である。
このアルバムで表現される「ポップミュージック」とは?
柴田聡子、Babi、古川麦といったゲストミュージシャンの参加という中でどのようにアルバムのカラーがデザインされていったのか。
30smallflowersがインタビューを試みた。
ポップミュージックを徹底的に作曲する
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–:とても濃厚な作りになっていると感じます。トラックは全てアルバム用に製作したものなのでしょうか、あるいはこれまでのワークからの素材なども多様されているのでしょうか?統一感と多様性が折り重なっているからでしょうか。時間軸というのか、、一瞬で終わるような、永遠に続くような不思議な感覚を覚えました。
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網守将平(以下:網守):ありがとうございます。全曲アルバム用に制作しました。使用している音色/音素材に関しては、これまで独自に制作したシンセのプリセットで作ったものやコンピュータ上のジェネラティブなアルゴリズムで作ったもの、また新たにアルゴリズムから作った素材ももちろん用いています。冒頭のピアノ曲に関しては、高校生の頃に作ったメロディーが元になっています。使えるタイミングを待つために実家の自室の部屋に譜面を書いて貼っていました。
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–:それはとてもいいエピソードですね。音楽そのものだけでなく時間軸の捉え方がとても素晴らしいと思います。
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網守:とはいえ作品全体としては、制作のメソッドにおいて特にこれといった特徴も制限もありません。自分に課したのは「ポップミュージックを徹底的に作曲する」ということのみで、統一感や多様性のようなものももちろんあるのでしょうけど、それは自然と演繹的に付与されただけですね。それは僕が過去に西洋伝統音楽の教育を受けてきたこととも関係しているのかもしれないですが、この作品に関してはあくまでそれはたまたまそうなっているだけで、過去を生かして今まで積み重ねてきたものを統一して作品化しようとは考えませんでした。言い換えれば何も考えずに作ってるんですけど、制作の段階において「過去」は作者の預かり知らぬ部分で必ず介入してくるので、その介入というプロセス自体を事後的に自ら楽しむことは目指していたといえます。
「ゲスト」であるという社会性と、「一作品の一楽曲の中の歌という1ファクター」であるという実存が作品内で拮抗している
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–:今回、ヴォーカルでお二人の方をフィーチャーされていますね。それぞれの製作についてお伺いしたいのですが、まず、柴田聡子さんをフィーチャーしたトラック3のKuzira、こちらのトラックはわりと大きなフレーズがゆったりとした形をもつメロディーになっているように感じました。柴田聡子さんの声、歌詞との相性など明確にイメージされているところはありますか?
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網守:Kuziraは全楽曲中一番最初に作った楽曲ですね。アレンジが終わった段階では、メロディー含めあまりにもナラティブのある曲になってしまったのでどうしようかなと思ったのですが、いろいろ悩んだ結果、この楽曲と相性が合わなさそうな人に敢えて歌ってもらってどうなるか試してみようというアイデアに着地しました。そこで短絡的なファン心理で柴田聡子さんにお願いしました。
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–:それでも結果的にはとてもうまく引き立てていると思います。
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網守:最終的に柴田さんのヴォーカルがここまで楽曲に浸透するとは思ってなかったんです。柴田さんはやはり自作曲を一人で弾き語りしているのが圧倒的に良いと思うので、他人の曲、しかもこんな曲も歌えるんだと感心してしまいました。突発的に職人みたいにもなれる人なんだと。
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–:次に、Babiさん参加のトラック8のenv Reg.ですがこちらは対照的に細かな粒立ちのようなものが印象的なメロディーですね。Babiさんのヴォーカルも他のインストゥルメントパーツと並列に組み込まれているような気がします。この辺りは意識されていましたか?
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網守:env Reg.に関しては、歌と楽曲の諸要素との関係性を考える前段階、つまりアレンジ前にメロディーだけが頭に浮かんだ段階でBabiさんの声でしかメロディーを脳内再生できなかったので、アレンジが終わった段階で悩まずにすぐBabiさんにお願いしました。Babiさんも本来は作曲家であり、シンガーであるという意識が希薄な人なので、この楽曲で聴かれるテクニカルな歌唱をそういったアーティストにお願いしたという点では、これもまた良い意味でどこかで相性の合わなさがあったはずです。つまり、Kuziraで柴田さんにお願いした時のような動機が僕の中に残っていたんだと思います。
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–:お二人のヴォーカルが対照的にフィーチャーされていて、アルバム前半の中核、後半の中核というようなイメージも受けました。とても良いバランスだと思います。どんな形で参加が決まったのでしょうか?
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網守:今回参加して頂いたゲストミュージシャンのみなさんがこのようなラインナップになったことに関しては、単に僕がファンであったということだったり、共通のミュージシャンの知り合いがいたりなどたまたま近くにいたからという短絡的な理由でセレクトした記憶がありますが、自分で改めて聴いてみると、やはり耳を使って選んでいたんだなという自負はあります。今回の作品は音響系的なアプローチがあったり和声の動きが多かったりで情報量が何かと多いことは明白なんですが、最も意識的に作ったのはメロディー、なんです。なのでメロディーにどれだけ強度があるかという点とそれを誰が歌えばその強度がさらに向上するかという点も、ヴォーカリスト選定の大きな判断基準でした。そういう意味でスピーカーだけでなく脳内でも音を鳴らしてセレクトしたと言えます。
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–:ある種の身体感覚、でしょうか。
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網守:その結果、柴田さんに抽象度の高い詞をおおらかなメロディーに乗せて歌ってもらうことも、Babiさんに幼児退行したような詞を細かいメロディーに乗せて歌ってもらうことも、最初からシンガーオリエンテッドな意識で制作しなかったことで、最終的に楽曲自体の方向性と相互浸透させることができのではないかと思います。ただ、この作品は本来シンガーではない僕自身が歌ったり声を出したりしている楽曲も数曲存在しているというのも重要で、ゲストヴォーカルの入った曲が取り立ててアルバムの核であるとは思ってないんですよね。それは言ってみれば、「ゲスト」であるという社会性と、「一作品の一楽曲の中の歌という1ファクター」であるという実存が作品内で拮抗している。この拮抗を生み出すことがポップミュージックのアルバムを作る醍醐味の一つかと思います。
この作品はアルバムという形態を取りつつトータリティを志向していないんです
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–:冒頭のタイトル曲や古川麦さんとのインタープレイもそうですが、エレクトロニクスが後付けとは思えないような、生演奏と電子音の融合がとても印象的でした。作曲をされている時点である程度の最終形はイメージされているのでしょうか?偶然を活かす集中力が生演奏にも電子音にも等しく注がれているようで驚きました。
古川麦さんとのインタープレイということでお伺いしたいのですが、製作以前から例えば共演のような形でお互いにつながりはあったのでしょうか?濃密なセッションを経て、あるいは試行錯誤を経て10.Mare Songの形が出来上がったのか、あるいは最初からイメージがあって、そこに古川麦さんが後からうまく色彩を増やしていったというような形なのか、その辺りはいかがでしょうか?
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網守:古川麦さんは大学の先輩なんですが、学生時代は面識がなく知り合ったのは比較的最近ですね。Mare Songに関して言うと、丁度1年ほど前に現代アートのイベントに僕がライブで出演した際にゲストで麦さんにも飛び入り参加してもらい、その場で一緒に演奏した楽曲がMare Songの叩き台として存在していました。その時は僕の歌とピアノ、麦さんのギターというオーソドックスなデュオ形態で演奏したのですが、その時点でアルバム用にアレンジし直してレコーディングをすることも決まっていました。
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–:そういった経緯があったのですね。アレンジはどうやって決めていったのですか。
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網守:その後は基本的に僕一人で、生楽器の音もそれ以外の音も含めアレンジをフィックスさせ、歌と各楽器をレコーディングしました。なので楽曲制作においてはインタープレイ的な作り方はしていないんです。譜面も書いて、ワルツ調の伴奏フレーズや音域も基本的に僕が指定したものを、完成されたアレンジにオーバーダブさせる形で演奏してもらいました。とはいえ、やはり古川麦が弾いたギターは古川麦の音になるので、その絶対性みたいなものは信じて作った記憶があります。またこの楽曲にはヴォーカルが入っていますが、自分で歌うと同時に古川麦に「歌わせない」ことでも、ギターの絶対性を担保したかったんです。
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–:時折のデジャブ感がアルバムを通貫するキーとして、例えばノイズから次第に和声が見えてくるアプローチであったり、リズムの配置であったり、そういったところに感じました。Mare Songのようにトラックが完全に独立して存在するもの、atc17〜env Reg.のように、曲間が曖昧なもの、Pool Tableのように冒頭とリズムトラックとのつながりが断片的なもの、と様々ですが、フィーリングは統一されているように感じます。デジャブ感と申し上げた要素です。製作は短い期間に集中的に行われたものなのでしょうか?あるいはかなり時間をかけたものなのでしょうか。
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網守:作品全体の制作期間は一年以上はかかりました。楽曲単位だと一番制作に時間がかかった曲は一ヶ月くらいかな。この作品はアルバムという形態を取りつつトータリティを志向していないんですが、そんな作品でも突発的にデジャブ感みたいなものが感じられるとすれば、「トータリティを志向しない」というある種のレギュレーションみたいなものに、無意識に自ら反発して、テクスチュアルなレベルにおいて統一感をもたらしにいったのだと思います。
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–:トータリティを志向しないことへの反発という内面と結果としてのデジャブ感というのは面白いです。
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網守:ある曲を制作している段階で、数ヶ月前に完成しそのまましばらく聴きもしなかった曲の素材やアルゴリズムを、ほんの一部だけトレースしてみたりとか。なので事後的に「デジャブ感」という印象についてお聞きできたことは、自らがどのように作品を作ったのか振り返るにあたって非常に興味深いです。
>>良くも悪くも、正統な形でポップスをやっている音楽なのではないかなと思っています
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2016.12.24 21:00