【INTERVIEW】スカイドッグ・ブルース・バンド interview

札幌が生んだ正統シカゴ・ブルースの名バンド、スカイドッグ・ブルース・バンド。その1975年9月のライブ・フル音源が正式リリースされました。URCから「ファースト・アルバム」(1976年)、「北27西4 札幌へ来てから」(1978年)と2枚のアルバムを発売し、その日本語歌詞によるオリジナル・ブルースは、憂歌団と並び評価されていますが、活動拠点である札幌のブルース喫茶“神経質な鶏”での本ライブは、結成直後ということもあり、バディ・ガイ、マジック・サム、エルモア・ジェイムス、ジミー・ロジャースなど大胆なアレンジによる全編カバー約90分のステージ、それを全て収録した貴重なものであり、49年目に新たな発見をもらたしてくれました。そこでオリジナル・メンバーの伊藤和幸(ボーカル)、金安彰(ギター)、信田和雄(ピアノ)、船津康次(ドラムス)の4氏に集まっていただき話を訊きました。


本当の黒人ブルースをやろうって(マーチン)

―:皆さんの年齢から察するに、70年代前半の空前のブルース・ブーム、その世代ですよね。(参考「【INTERVIEW】日本を代表するブルース・バンド ブレイクダウン そのマネージャー、中根義之氏に訊く」)
金安彰:実はバンド始めるまであまり聴いたことなくて、グループ・サウンズの時代でした。

金安彰(ギター)

金安彰(ギター)



船津康次:大学に入ったのはメンバーそれぞれ1970年、71年ですから。バンド結成は卒業間際の75年。僕と金安は同い年、マーチン(伊藤和幸)と信田(和雄)が1歳下で、ベースの水野(俊介)が1歳上。

 船津康次(ドラムス)

船津康次(ドラムス)



―:ブルースとの出会い、というと?
船津:マーチンと信田と亡くなった水野、あともう1人で既にスカイドッグというバンドをやっていたんだよね。
伊藤和幸(マーチン):その名前でオールマン・ブラザーズ・バンドなどのコピーやってたよね(デュアン・“スカイドッグ”・オールマンの名に因む)。それで、このバンドにドラムの船津とギターの金安が加わって、新たなスカイドッグ・ブルース・バンドが出来たわけです。スカイドッグ、その名前でいいんじゃね、って言ったことは覚えてる。そして、このバンドになってからは、今までやってなかった、本当の黒人ブルースをやろうって。

伊藤和幸(ボーカル)

伊藤和幸(ボーカル)



船津:メンバー4人は札幌にいたんだけど、金安は東京で、学校を卒業して、出身地の網走に帰る途中に札幌で、このバンドに参加することになり、本格的にブルースのコピーを始めました。
金安:みんなそれぞれブルースが好きになりだした頃だったんだよね。僕は東京で、ロバート・Jr・ロックウッド(第1回ブルース・フェスティバル、74年11月)やバディ・ガイの来日コンサートや、もちろん、B.B.キングも観てカッコいいなと思った。
船津:僕は、74年8月に郡山で行われたワンステップ・フェスティバルという日本版ウッドストックみたいな野外コンサートがあって、そこでウェストロード・ブルース・バンドを観て、とてもカッコよくて、こういうバンドやりたいなって思った。その後、札幌にウェストロードを呼ぶことになるんですけどね。
金安:僕もワンステップ行きましたが、やっぱりブルースっていうのは気になって
マーチン:僕は札幌にいて、4丁目のレコード屋、玉光堂の前を通ったら、今までやってきた音楽と全然違うのが流れてきてびっくりしたんです。店の中に飛び込んで、これ何ですかって聞いて、B.B.キングの2枚組のLP(「B.B.KING/LIVE IN JAPAN」)をすぐ買いました。そこからですね、夢中になったのは。まさか自分がブルースやると思わなかったもんね。そんな時に、信ちゃんから北大の軽音楽部に誘われて、ブルースをやりだしたわけです
金安:ブルースだけを懸命にやり始めたのは75年の初め頃ですね。それで北海道大学の新入生歓迎コンサートで、我々が演奏しているのを、たまたま、神経質な鶏のオーナーの梶原(信幸)さんが見に来たんだよね。

ブルース喫茶 神経質な鶏 

ブルース喫茶 神経質な鶏 



―:今回発売されたCDアルバム(「Live 1975 at 神経質な鶏」)が録音された店ですね。
金安:オーナーの梶原さんは、大学が京都、京都というとやっぱりブルースでしょ。それで札幌に帰ってきて、ブルースの喫茶店みたいなことやりたいなってところから神経質な鶏を始めたみたいです。たまたまスカイドッグの演奏を見て、札幌にもこんなバンドがいるんだ!って、ことで関係が始まりました。
船津:神経質な鶏のオープンは74年の終わり、つまりスカイドッグの活動とほぼ同時進行ですね。それでオファーを頂き、ライブを重ねていったって感じです。
信田和雄:小さい店だったんだけど、僕らもライブをやりたかったからそれで出始めて、定期的にやらしてもらってました。

信田和雄(ピアノ)

信田和雄(ピアノ)



マーチン:月に1回でした。だから歌詞覚えるのに苦労しましたよ。まだブルースやりだしたばかりだしさ。これは勉強だなぁっていうのもあったよね。毎回毎回、曲を全部変えてチャレンジということで始めたのが神経質な鶏だった。
店が出来た時、何だか怪しい店が出来たって、友達がね、やたら入りづらくて入るの勇気いるよなぁって。梶原さんて、最初あった頃とあんまり今も変わってないよね。何かね、尖がっていて、こだわりがあって。今も変わってない。
金安:僕たちより、少し年上で、あまり出会ったことないタイプ。真っ黒な店の中に、鶏の剥製がぶら下がってて、ありえない感じ。

神経質な鶏 店内

神経質な鶏 店内



マーチン:人が人を呼ぶじゃないけど、変わった面白い連中が集まってたね、あの頃。高校の制服でいつも自転車に乗ってたキヨシ(松竹谷清)、ライブでは、いつも一番前に座って聴いてた。その後、立派なミュージシャンになったもんね(ジューク、TOMATOSなど)。
金安:みんなで、ジンギスカン・パーティーやったの覚えてる?
マーチン:そうそう、覚えてる覚えてる。それから、豊平川の河川敷で、ソフトボール大会やったり。神経質な鶏に集まるお客さんというか、仲間というか、みんなで遊んでたなぁ。

ボーカル大変だった(マーチン)ギターだって大変だった(金安)

―:ブルース・バンドを始める、まずはカバーだと思いますが
金安:とりあえずバディ・ガイは、僕が提案したのかな? A面の頭からB面のケツまでLPまるごとコピーしようってことみたいなことから始まった。
マーチン:ボーカル大変だった。
金安:ギターだって大変だった。
船津:その頃ね。僕と金安と水野は、北27条のボロい一軒家を借りて一緒に住んでたんですよ。そこの6畳間の窓に、布団を貼りつけて防音にして、バンド練習できるようにして、やりたい放題、練習していたんですよ。
―:話は少し飛んでその後、大塚まさじさんや友部正人さんと、活動を共にしますが、どういうきっかけだったのでしょうか。
船津:それは、北大のフォークソング・クラブにいた、大西清友さんのアテンドです。大西さんは、水野の友人で、自分はプレイヤーはやめて、コンサートのプロデユースをしてました。北日本や北海道の大きなコンサートをマネジメントしていて、当時のフォーク系の多くのミュージシャンのコンサート活動を手伝っていました。その彼の紹介で、大塚まさじさんや、友部正人さんとライブやコンサートをさせていただくことになったんです。
金安:大塚まさじさんが北海道・札幌ツアーにみえた時に、大西さんの紹介で、さっき話した我々の一軒家の空いている部屋にしばらく泊まっていかれたんです。その時をきっかけに、何か一緒にやってみようかと言う話が出て意気投合しました。
マーチン:岡林信康さんの北海道ツアーでバックをしたり、前座でスカイドッグの演奏をしたり、なぎら健一さんのバックやったりしたね。そういう感じでいろんな人と親交ができていったね。

スカイドッグ・ブルース・バンド

金安:その後、大塚さんの知り合いの石田長生さんや、藤井裕さんなどの関西のミュージシャンとの繋がりが出来、大塚さんが所属していた大阪のオレンジ・レコードの阿部(登)さん、(福岡)風太さんには、大阪で大変お世話になりました。
信田:あの伝説の音楽プロデューサー、福岡風太さんと知り合ったりしたね。それで大阪の春一番コンサートに出演させてもらったり。
―:それが、1stアルバムのレコーディングに繋がったのでしょうか。
金安:そうだね。スカイドッグの1枚目のレコード(「ファースト・アルバム」1976年)は、URCレコードからだけど、当時のフォーク・ソングの多くは、そのプロデュースでした。
―:そこで、日本語のオリジナル曲を作り始めるわけですね。
金安:アルバムを制作するのであれば、コピー曲だけでは難しいというのが大西さんの判断で、オリジナルをやってよね、って言う感じでした。

スカイドッグ・ブルース・バンド

マーチン:レコーディングが前提というか、頭に置きながら日本語のブルースを自分らで作ってやろうって言ってやったわけです。
船津:大塚まさじさんや友部正人さんとかと一緒にツアーする中で、自分達の気持ちを歌詞にすることを身近に感じたということもあったかと思います。
マーチン:それで、サウンド・プロデュースは、大塚まさじさんにお願いすることになり、スタジオでのエンジニアは、大塚さんの信頼する加門清邦さんが担当して下さいました。
金安:そうして友部正人さんのアルバム(「どうして旅に出なかったんだ」1976年)でバック・バンドをフルにやらせてもらいました。自分達の1枚目と同時進行のような感じだったね。



お金ないからメンバー5人が乗れるハイエース。楽器もドラムもアンプも全部入れて走り回りましたね(信田)

―:さて、今回発売された2枚組のライブ・アルバムは、75年の9月に、札幌の井内英男さんが録音したのですが、この日のライブのことは覚えていますか?
マーチン:覚えてません。
金安:その日は覚えてないよね。こんな感じで毎月やってたってのは覚えてるけど。PAもないしね。
―:梶原さんが、ライナーノーツに書いてますが、ドラムもスネアとハイハットだけ、ボーカルはアディション・ギター・アンプに突っ込んでたんでしょう。
マーチン:そうそう、僕は、ギター弾かずに歌はボーカルじゃなくてギターアンプからで、信ちゃんは当然生音だし、ギターアンプも小っちゃいやつ使ってました。
信田:やっぱり狭かったですから、ほんとにカウンターしかなくて、テーブルが1つか2つあって、僕らは一番すみっこでやってた感じですからね。
―:スカイドッグの札幌でのライブを見たメジャーの徳間バーボンのディレクターから、デビューしないかと話があったそうですが、聞いてましたか?
金安:徳間の人が1回会いたいというのは梶原さんから聞いてます。ちょうどその前に、大西さん経由でURCからレコードを出さないかって言う話があったので、そっちを選んだわけです。

スカイドッグ・ブルース・バンド

マーチン:その頃にはもう日本語のオリジナル曲が結構いっぱい出来上がっていたんですよ。レコーディングとなると、やっぱり、オリジナル、日本語の歌だなぁと言うことで。そういう意味では、オリジナルの歌は、レコード・デビューがきっかけと言えますね。
―:レコード・デビューして、何か変わりましたか。
マーチン:レコードが出て、ライブ活動が活発になったっていうことですかね。レコード会社からキャンペーンみたいなもあったし。それで自分らで、車を買って機材積んで旅が始まりました。全国ツアーのような旅もあったし。
船津:それまでは、ライブが無い時は、札幌ススキノで、トラバン(クラブなどのレギュラー・バンドが休む際の臨時のバンド)なんかもよくやったけど、そういうのは、止めたね。練習か、ライブかって感じになった。
信田:名神高速を走って、ライブハウス回って、お金ないからメンバー5人が乗れるハイエース。楽器もドラムもアンプも全部入れて走り回りましたね。
船津:初めはクラウンのバン、このクラウンがつぶれて、次は、布団屋の名前が入った中古のボロいタウンエース。このタウンエースは、京都から東京に向かう途中、エンジンが焼き付いてぶっ壊れた。
信田:機材に楽器そして寝袋も積んでた。どこで寝るかわかんないから面白かったね。それこそ北海道はもちろんだけど本州九州沖縄まで演ってましたね。2ヶ月ぐらい帰れない時あったよね。1回ツアーに出ると1ヵ月ぐらいは軽く行きっ放し。関西でよく行ったのは、まだ開店間もない京都の磔磔。あの酒蔵跡みたいな2階でみんなで寝てたよな。
マーチン:お化け出てなぁ(笑)。磔磔の住人のようになってたよな、俺たち。オーナーの藤原さんとは、みんな仲良くなった。
金安:磔磔は布団のレンタルをしてくれるんですよ。それで僕らが泊まってると、名古屋のバンドがどうしたとか、次は、どこからアルバム出すとか、そんな業界話もあったりと、面白い時代でした。

スカイドッグ・ブルース・バンド

船津:沖縄に行った時のことは忘れられないね。磔磔の後、陸路ハイエースを飛ばして鹿児島の最先端に着いたのはいいけれど、沖縄のブッキングをしてくれている人と連絡がつかない。鹿児島からフェリーに乗っちゃうと僕らのお金がゼロになりそうで、みんなでどうするって。これは引き返すべきか行くべきか。向こうのスケジュールがはっきりしない。
信田:でも、結局、ここまで来て帰れるかってことになって、フェリーに乗っちゃった。でも着いたら、やっぱりライブの予定が入ってなくて、ステーキ屋さんで一週間くらいクラブ・バンドみたいなバイトして食いつないで。
マーチン:米軍の海開きのイベントで、紫の前座で共演したよな。あれ、めっちゃ覚えてる。その後、コザでライブやったら、紫のリーダーのジョージ紫さんが来てくれて、「いいバンドだねぇ」って褒めてくれたよね。
信田:あの海開きのイベント、雨降ってきて、フェンダーのエレピが大変だった。鍵盤を1つ押さえたら全部ボーンって歪んじゃってずっとドライヤーかけたもんな。色々ありました。
船津:その後、札幌では、エリック・クラプトンの前座やらしてもらったり、トム・ロビンソンバンドの全国ツアーの前座でツアーやったりと、ライブ活動の幅が拡がったね。
マーチン:全国的にブルース・バンドとして知られるようになって、東京でも、次郎吉やロフトでもライブが出来るようになった。
金安:まぁ、色々あったな。ほぼほぼ50年前だもんなぁ。でも、マーチン、今でも曲のキーは変えてないんだろう。
マーチン:まぁねぇ。原キーはしんどくなってきたのはあるね。でも、やっぱり、スカイドッグでやるのは楽しいから、バンドは続けたいね。

スカイドッグ・ブルース・バンド アー写

―:現在も、スカイドッグはライブは続けてますからね。
マーチン:ずっと続けているわけではないですが、何年かに一度という感じでライブをやっています。
金安:ベースの水野さんが残念ながら他界されたので、自分の友人の門脇優にベースに入ってもらってます。
船津:今年の12月に、神経質な鶏50周年のコンサートがあるみたいだから、札幌で久しぶりにライブやりましょうか。
全員:いいね、やろう!


オンライン取材:金野



『Live 1975 at 神経質な鶏』スカイドッグ・ブルース・バンド アートワーク
『Live 1975 at 神経質な鶏』
/ スカイドッグ・ブルース・バンド
2024年5/22リリース
フォーマット:2CD
レーベル:BRIDGE
カタログNo.:BRIDGE401
【Track List】
DISC-1
01. Suffer With The Blues [Buddy Guy]
02. I Found A True Love [Buddy Guy]
03. Next Time You See Me [Junior Parker]
04. That’s All Right [Jimmie Rodgers]
05. I Don’t Want No Woman [Magic Sam]
06. Same Old Blues [Freddie King]
07. Sweet Home Chicago [Robert Johnson]
08. Five Long Years [Eddie Boyd]
09. Watch Yourself [Buddy Guy]
10. Sky Dog Jump
11. Going To Chicago [Fenton Robinson]
12. Dust My Broom [Elmore James]
DISC-2
01. Act Like You Love Me [Jimmie Rodgers]
02. Stormy Monday [T-Bone Walker]
03. Mean Old World [T-Bone Walker]
04. Gypsy Good Time [Michael Bloomfield]
05. Gold Tailed Bird [Jimmie Rodgers]
06. Hold That Train [Buddy Guy]
07. First Time I Met The Blues [Buddy Guy]
08. Messin’ With The Kid [Buddy Guy]
09. Ain’t Nobody Business [Bessie Smith]
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【クレジット】
1975年9月20日 札幌 神経質な鶏
伊藤和幸 Vocal
金安彰 Guitar
水野俊介 Bass
信田和雄 Piano
船津康次 Drums
ジョージ・モリ:編集、マスタリング
ダダオ:デザイン
梶原信幸(神経質な鶏):解説


SAPPORO BLUES FESTIVALフライやー
神経質な鶏50周年記念
SAPPORO BLUES FESTIVAL
2024年12/8(日)札幌 ベッシーホール
北海道札幌市中央区南4条西6丁目8-3 晴々ビルB1F
ACT:
SKYDOG BLUES BAND[伊藤マーチン(vo.g),金安アキラ(g),船津康次(ds),門脇優(bs),太田優樹(key)]
BAKERSHOP Bros.[吉田ハジメ(vo.g),関ヒトシ(g),内海謙一(key),後藤ヤギ(bs),鈴木ノリ(ds)
Open 18:00 / Start 18:30]
※マスク着用は個人のご判断となります。


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2024.10.20 21:00

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